不合理を受け入れる
「めぐりながれるものの人類学」石井美保 青土社
という本を読んでいる。
ギンザシックスの蔦屋で気になり手に取った本だ。
この書き手はさまざまな事象への向き合い方が丁寧だ。
人類学研究のフィールドワーク中の出来事や思考を気まぐれな随想として書いたという本。
何とは無しに手に取った本から、今私が学ぶことは、
不合理を受け入れることなのではないかと思っている。
ひとり娘を事故で失った友人のことを書いたあと、こう続く。
「「なぜ」という問いに答える物語を受け入れることで、当事者たちが苦難の意味を了解し、窮境を乗り越えていくこと。私たちは、それをどこかで前提としていた。だが、自分よりも大切な誰かを失ったときに沸き起こる「なぜ」という問いは、どんな物語によっても答えられることがない。」
「苦悩からの救済をもたらしうる一方で、「問うな、もうこれ以上」と命じる力を秘めたものが物語であり、「なぜ」への答えなのだろう。」
私は今までの人生で合理的なものに考えが偏っていたように思う。
努力すれば報われる。
時間をかけただけ結果が出る。
だからこそ病気の10年が許せなかった。
そして病気の10年を受け入れるために必死に物語を考える。
病気をしたおかげで人の痛みがわかるようになった。
何かを学ぶために病気になった…。
だけれども、
物語によっても乗り越えて行けない出来事が起きるのが、この世の中であり、
それでも人は物語を作り生きていくのは、
「もう問わない」ようにするため。
こういう選択肢もあるかもしれない。
物語によっても解消できない不合理なことは、なにか意味をつけたり押し込めたりしないで、
そのままで生きていく。
出来るか出来ないかは置いておいて
そういう事もあるだろう、と思ってみるだけでいいと思う。