日記

統合失調症とちょっとアートの備忘録。

ツケの払いあい

家庭を犠牲にして何か偉業を成し遂げる。

その人の家族は病んだり、悪影響を受けたり、

自分を活かせなかったりする。

病んだ家族は何かに救いを求める。

別の誰かの偉業に心動かされ、救われる。

その、別の誰かの偉業は何かの犠牲の上に成り立っている。 

 

マザーテレサが、

 

世界平和のためにできることですか?

家に帰って

家族を愛してあげてください。

 

と言ったのは

わかる気がする。

 

いつも悩む。

 

 

倦む

体調が悪かった時は、

明日の体調がどうなるかわからないので、

同じ毎日を繰り返しているという感覚がなかった。

今思えば毎日必死だった。

 

いま、

体調がいいので、

明日もきっと予定をこなし、動けるという自信があるし、

毎日同じことの繰り返しだなーという感覚がある。

特に育児中なので

毎日毎日、同じ事を繰り返す。

 

時々、飽きる。

倦むってこういう感じか。

体調が悪かったら感じない感覚だと思う。

 

たぶん、良いことなんだと思う。

 

衝撃・水色ともちゃん

わかりやすさに衝撃。

私が10年かけて理解してきて、

何十行も言葉を使ってこのブログで考え書いてきたことが数ページの漫画で読める。

 

f:id:unaao:20190818150727j:image

30分で読み終わります。

一部、ネットでも読めます。

http://mizutomo.info

 

すっかり水色ともちゃんのファンだ。

これからは、

統合失調症を理解したい人に

まず最初に勧めたい本になった。

不合理を受け入れる

「めぐりながれるものの人類学」石井美保  青土社

 

という本を読んでいる。

ギンザシックスの蔦屋で気になり手に取った本だ。

 

この書き手はさまざまな事象への向き合い方が丁寧だ。

人類学研究のフィールドワーク中の出来事や思考を気まぐれな随想として書いたという本。

 

何とは無しに手に取った本から、今私が学ぶことは、

不合理を受け入れることなのではないかと思っている。

 

ひとり娘を事故で失った友人のことを書いたあと、こう続く。

 

「「なぜ」という問いに答える物語を受け入れることで、当事者たちが苦難の意味を了解し、窮境を乗り越えていくこと。私たちは、それをどこかで前提としていた。だが、自分よりも大切な誰かを失ったときに沸き起こる「なぜ」という問いは、どんな物語によっても答えられることがない。」

 

「苦悩からの救済をもたらしうる一方で、「問うな、もうこれ以上」と命じる力を秘めたものが物語であり、「なぜ」への答えなのだろう。」

 

私は今までの人生で合理的なものに考えが偏っていたように思う。

 

努力すれば報われる。

時間をかけただけ結果が出る。

 

だからこそ病気の10年が許せなかった。

そして病気の10年を受け入れるために必死に物語を考える。

病気をしたおかげで人の痛みがわかるようになった。

何かを学ぶために病気になった…。

 

だけれども、

物語によっても乗り越えて行けない出来事が起きるのが、この世の中であり、

それでも人は物語を作り生きていくのは、

「もう問わない」ようにするため。

 

こういう選択肢もあるかもしれない。

物語によっても解消できない不合理なことは、なにか意味をつけたり押し込めたりしないで、

そのままで生きていく。

 

出来るか出来ないかは置いておいて

そういう事もあるだろう、と思ってみるだけでいいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界は手間でできている

薬の調整で体調が劇的に良くなったのがちょうど一年前だ。

その頃から、体調が悪かった今までの10年は何だったのだろう、

という悩みがうまれ、

1年もうじうじ悩んでいることになる。

 

日常生活もままならない体調から、

毎日きちんと生活できるようになると、

あ、世界ってこのようにできているのね、という発見がある。

 

お風呂に入るでも、歯をみがくでも、

ちゃんと朝起きるでも、朝ご飯をたべるでも、

決まった場所に毎日通うでも、

毎日ちゃんと積み重ねることで物事が前に進み、

できることの可能性が開けてくる。

 

時間と手間をかけただけのことが、ちゃんと返ってくる。

 

世界は手間でできてる。

生きているのってこんなに手間をかけなきゃいけないことだったんだ。

よく、寝込んで、起き上がれないことの多かった日常からすると、

生きているだけで実は、かけなきゃいけない手間があったのに、

それをすっ飛ばしてきたから(病気だから仕方のないことなんだけど)

そのツケを今から、払わなきゃいけないんだと思っている。

10年分。

 

たとえば、単純に、

歯医者に継続して通えなかったから

たくさん治療しなきゃいけない部分が増えてしまった歯を、

いま何か月もかけて治していることとか。

 

統合失調症にかくれて、婦人科の不調(PMS)に気付かなかったので

いま試行錯誤してPMSの対策を探していることとか。

 

本が読めなかった、絵がかけなかった。

10年それができていたら、どこまでいけただろう、と悩むこととか。

 

過去の10年は何だったのだろう、という悔いは

たぶん10年かけて解消していくのだろう。

 

そして、これからかけていく手間は省いたらきっと未来にツケとして返ってくる。

 

特に子ども。

私の育てられ方をみても、

与えられたゆがみはちゃんと何かの形になって表れてきた。

子育てで息抜きしたり、手を抜いたりして全然かまわないのだが、

最低限のところで、かまうところを省くと、

それはちゃんと機嫌や体調に現れることをたった数か月でも経験した。

 

問題行動の多かったおばあちゃんには、

病気で倒れた時、あまり、助けなきゃと思わなかったが、

いつも優しくマメなおじいちゃんには、

大変だった時、なんとか力にならなくては!と必死になった。

 

優しくされたら優しくしたいし、

困らせられたら遠ざけたくなる。

 

そういう単純な仕組みが、人間だろうと、

日常のささいな動作だろうと、物質だろうと、

宿っている。

 

だから手間を惜しまずに生きていこう。

それを学ぶために病気になったのでは、とさえ思う。