日記

統合失調症とちょっとアートの備忘録。

人の認識は儚い

人の認識は儚い。

 

統合失調症で困ることの一つは、

何が事実だったかわからないことだ。

 

奇声を上げながら通り過ぎる人がいた、その人は私がおかしい人だからそれを嘲笑うために奇声を上げている、と思うとする。

 

被害妄想が症状としてある統合失調症の人は、

私がおかしい人だから奇声を上げている、というのは被害妄想かもしれない、と考えなおす。

いや、そもそもその通り過ぎた人が奇声を上げていた、ことさえ妄想かもしれない。

ちょっとした笑い声や、びっくりした声が奇声に聴こえただけかもしれない。

では、何が事実だったのだろう、全ては闇の中だ。

そして思う、私いま、ちょっと体調悪いのかもしれない。

そういうことが日常。

 

私が高校生の時、赤い自転車で通学していて、

自転車置き場に到着すると、いつも男の子二人が立ち話をしていた。

その男の子たちは、私の赤い自転車のことを笑っている、と思っていた。

それは、そういう感じがする、ではなくて確信だった。

あ、また笑っている。そう思って毎日男の子たちの横を通り過ぎた。

それが、ただ通学時間帯が私と同じで、仲の良い男の子が私とは関係ない世間話をしていただけ、の可能性の方が高い、と気づいた時、私は30歳を過ぎていた。

 

人の認識は儚い。

 

絵を見ている人に、その絵に何が描いてありますか、と聞く。

何か描いてあるものを答えてもらう。

コツとしては、その絵を見ていない人にイメージしてもらいやすい説明で、答えてもらう。

その場にいる人に順番に聞いていって、もう何も答えられないところまで、

なんでもいいから答えてもらう。

最後の方の人になると、あ、それは気づかなかった、

確かにそれは描いてあるのに、そこを見ていなかった、ということに気づく、

そういう授業を大学の時に受けた。

 

人は同じものを見ているのではなくて、

真実とか事実があるのではなくて、

その人の感じた認識で世界はできている。

世界は人の数だけある。

 

そういう話が物理であったよね。

難しい理論はわからないけれど、私は私の経験から、そのように感じる。