日記

統合失調症とちょっとアートの備忘録。

美しい世界

薬局の手違いか、私が紙袋と一緒に捨ててしまったのか、
薬が一週間分足りなくなった。
足りなくなってから気づいた。
いつもは服薬カレンダーに一個づつ入れいているが、
今回はまとめてバサッと置いていただけだった。




臨時に通院すれば、またもらえるのだが、
今の主治医と相性が悪く、顔も見るのも嫌だったので、
一週間ぐらいいいか、と思って飲まないで過ごし始めた。





次の日の夜から、寝つきが悪く寝ても眠りが浅かった。
寝た感じがしないな、と思いながら日中を過ごす。
6日目の夜に不眠になった。





寝られないので寝室からリビングに行って、
猫とかダイニングテーブルの上とかを眺めていた。
照明があたった猫の毛並みが美しく、猫の表情もいつになく豊かに見えた。
使い込まれたテーブルのくたびれた感じが落ち着いて見えた。
夜のリビングの空間も豊かに広がっていた。
静かに時間が過ぎていた。
一言でいうと、世界が美しく見えた。





10代のころもこういう風に世界が見えていたな、と思いだした。
薬を飲み始める前に見ていた世界だ。
薬を飲んでいる時より、
外界からの情報が整合性がとれていて、まとまりがあり、
物質の存在とその醸し出す雰囲気がぴったり合っていた。





そのように世界を眺めながら、
薬は義足のようなものなのかもしれないな、と思った。





義足は歩いたり走ったりするとき、足などになんらんかの障害のある人の助けになる。
でも、五体満足の人と全く同じ動きはできない。
全く同じ動きができないことが問題なのではなく、
そういうものだと思って付き合っていくしかない。
もしかしたら、義足を上手に使う技術を発達させて、
ものすごい高度なことができつかもしれない。パラリンピックの選手のように。





でも、整合性のとれた、動物として肉体として、美しい動きは、
たぶん五体満足の人のほうが、やりやすいと思う。




それはそれでの義足の人と優劣の比較なんかできないし、
五体満足の人も義足の人も、お互い自分のできることをできる方法でやっていくしかない。




統合失調症は、社会的な思考や、言語を使った思考や感情の整理の障害だと、
私は思っている。
たとえば、縄文時代とかもっと昔、
狩りをしたり木の実を取ったりして生活していた時代だったら、
統合失調症にはならないのではないか。
でも、今の世の中では、言葉を持ち社会制度の中で生きていかなければならない。




いま、薬を飲まないで6日目くらいだからまだ良いが、
ずっと薬を飲まなかったらたぶん妄想が出てきて社会的な生活ができなくなるだろう。
脳の社会的な思考や、言語を使った思考、感情の整理の部分が障害されているので、
薬をのんで補っている。
それとひきかえに、美しい整合性のとれた、まとまりのある景色は消滅する。





別に、景色が変わるわけではなくて、何ら見えてるものに変わりはないのだが、
醸し出される雰囲気を敏感に感じ取ること、が損なわれてくる、という話だ。





それは義足での歩きや走りが、動物として肉体として、美しい整合性のある動きを作り出しづらいのと同じように、
薬というもので不自然に整えなければいけないからだ。




何が言いたいかというと、この美しい世界から離れるのがさみしい。
もったいない。つらい。世界はこんなに美しいのに。




でも、数日後、通院があるからまた薬をもらって私は飲み始める。
私の社会的生命を終わらせたくないから。