日記

統合失調症とちょっとアートの備忘録。

さらに

『言語から文章へ』 谷川俊太郎

「詩を書く なぜ私は詩をつくるか」p90 思潮社
http://www.amazon.co.jp/dp/4783717079/

『 文章は絵画と違って、一瞬で対象をとらえることができない。頭の中にひとつの鮮明なイメージが浮かんでいても、それを言葉にすると、或る長さをもった時間の中で表現するしかない。文章を書くとき、私たちは時間にそって進む。時に早足で歩き、時に立ち止まる。時にまわり道をし、時には後へ引き返しもする。出発点に戻ってやり直すこともしばしばである。
 考えが頭の中から流れ出して、そのまま文章になっていけば、こんなに幸せなことはないが、私の場合そういうことは稀だ。頭の中はうまいたとえではないが、線香花火がかそけく火花を散らしているような状態だ。周囲は暗闇としか言いようがない。その中で時折火花がひらめいて、言葉と言葉がむすばれ、文章の断片となって意識の表層へ浮かび出る。妙な話だが、考えたことと文章とは、ほんとうはふたつの異なったものだ。
 考えは文章ほどにも首尾一貫していないのである。後になって自分の文章を読み返して、なんだかちょっとなめらかすぎるじゃないかと思うことがある。が一方では、自分の頭の中の言葉になりかけたかなりかけぬくらいの考えなどというものは自分にとっても他人にとっても存在しないも同然だとも言える。事実、文章になることで、はじめて自分の考えていたことに、自分で気づくということもあるのだ。
 頭の中の自分の考えは対象化できない。しかし自分の文章は、生まれた瞬間にもう他人の文章と同じように対象化できる。だから推敲ということも可能になる。むしろこう言ったほうがいいかもしれない。考えを対象化するために、それを社会の中で存在させるために、人間は文章を話し、書くのだと。だからそれは他人のためであるよりも前に、先ず自分のため、自分を見出すための行為だと言ってもいいと思う。』

この文章は、中3のとき、受験対策用のプリントかなんかに載っていて、
気になって家に帰ってノートに書き写した。
たぶん、書き写したらもっと好きになってしまったんだろうと思う。
そのプリントはもうどこかへ行ってしまったけれど、それから何回か書き写している。
きになってネットで探したら、上のリンクの本に収録されていることが分かって、買った。


この文章が気になった理由のひとつに、最初の一文に「絵画」という言葉があるからだろうと思う。
何度も読み返したい、文章についてわかったり、またわからなくなったりする、そんな文章だ。